信=不信







自分で自分を救う道

今、必要な方に届いたらいいなと思いながら
綴っています







ナマの事実=悟りは、信じる信じない
関係ありませんとお話ししています







信じるも 信じないも ない
理屈抜きの
ナマの事実そのもの のこと











ですから

自身の事実から目を背けて
自身の外の何かに幸せや解決を求めて

自身で実証せずに、外側の何かを鵜呑みにする、信じる


それでは決して心底救われないのです










JIONも苦しかった頃、
様々なメッセージを読み、そうして自身の外側に救いがあると思い込み、信じ、依存しかけていたことがありました










DVと離婚の経験も大変苦しかったですし

大好きな父とのお別れの前後
悲しいこと、
人に幻滅したこと、
骨盤疾患で仕事ができなくなったこと
次々と、短期期に雪崩のように続き、






人の醜い面もたくさん見てしまい

もう無理
がんばれない
何も出来ない
何もしたくない

そうして鬱になって






で、苦しかったですから、
今すぐに苦しさから逃れたいですから、
すぐにラクになれそうなこと
いろいろ読んだり聞いたり、聞きに行ったり
学んだり、資格取ったり、
とにかく苦しさから解放されるのではと
感じたもの、信じられそうなもの、
精神世界、願望実現系、セラピー系、
自己啓発系、色々やりました



一神教の信仰、新興宗教の信仰には興味が湧かず、宗教以外のだいたいのことをやりました。











私 が癒されても
私 の願望が叶っても
私 が何かを達成しても
私 が何かに成っても
私 が何かを得ても
私 が評価されても

結局、そこを目標にしてがんばっても
そういったことでは心底救われませんでした


完全に解決しませんでした
自身に落ち着けませんでした
疑問が残り続けました

つまり、心底安心できませんでした









のちに、

◆それらは万人共通の事実ではないから
◆私 は 思考の錯覚

という苦悩の根源がわかり、だから解決しなかったんだと納得できました








結果、己事究明しか、
自己の真相=世界の真相を明らかにするしか、
真の安心・自由の道はありませんでした











信じる っていうのがね

これが 厄介なんです








ひとは弱ってるとき
癒されるものを信じてしまいます







弱っていても 自我的意識はプライドが高いので

自分に都合よいこと
自分が気持よくなれる
ファビュラス(笑)で、ファンシー(笑)で
神秘的な言葉やメッセージしか信じなかったり、鵜呑みにしてしまいます








自分が信じたいことだけを信じます
自分が信じたいことだけが正しいと信じます

そして、それに執着します

〜でなければならない
〜であるべき
というふうに







自分に都合よくないこと
自分が気持ちよくない(指摘など)こと
自分がわからないことは
間違いだと否定します



今、あなたには、明らかに調和に向かわない考え方がありますよ、と指摘すると
怒ってしまう方もいらっしゃいます







自分にとって気持ちいいことだけをしてくれない人を嫌い、避けるようになります










人間の自我的意識には、そのような
特性があります










(自我的意識と呼ばれるもの
一般的に、エゴ とか 我 とかって
認識されているものですね

皆さん、そのエゴとか、我とか、実存していると信じていると思いますが、エゴなんてもの、ないんですよ^^)










ですので、セッションで
JIONから心地良いことを言ってもらえなくなると、途中でやめてしまわれます
(もったいないなぁと思います)








事実じゃないことを信じているわけですから
当然、いつになっても救われません
状況も変わりません。

ずっと、何かや誰かのせいにして
文句を言い続けてます
ダメ出しばかりしています
自分にダメ出しし続けている場合もあります


自惚れも、卑下も、どちらも傲慢です










苦しいと言いながらも
利己的な自己愛が強い方は、

自身をありのまま見て、自分の偏った考え方や自分だけの正しさを手放す覚悟はまだないので、ひとの話を聞けません

自分のこととして聞けないんです。






これはそういう人への批判や否定ではありません

善いとか悪いとかでもありません。

今、そういう状態だ、というだけのことです。


"自分の考え方に目をつける必要がある"
ということに、まだ気づかれていない段階の
人は、このようにふるまう特性があることを
お伝えしています

(段階なんてもんも本来ありませんが、
わかりやすく。方便です。)











で、痛い思いや苦しい思いを経験して、
だれがどーしたこーしたではなく、

自分自身の、
ひとと呼ばれるこのものの有り様を知ることしか、

己事究明しか、本当の安心・自由はないかもしれないな…と、やっと気づきはじめるわけです







なので、苦しい出来事というのは
有り難いことなんです

自らの考え方で己を苦しめていたんだなぁ、自ら不自由にしていたんだなぁと、
気づけるチャンスですから




(そうして、ナマの事実の話を聞くと、皆さま眼から鱗ポロポロです^^)











今回は、信じることは必要ない、
信じるは、信じないと同じ、ということを
お話ししたいと思います






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