「相手が察してくれない」と相手を責めたくなったときの心理(再掲)
本日もお越しくださり、
ありがとうございます
2020年5月にアップした記事をリライトしました
日本古来の、日本特有の観念から、
日本人の多くのひとが出来ていないこと、
ご存知でないこと、
・「母子一体感」
・「課題の分離」
・「察する」ことの影響とリスク
などについて、お話ししたいと思います
私も、心の理を勉強するまで知らなかったことです。
ちょっと長いのですが、(いつもですね 笑)
ぜひ、最後までお読みいただければと思います
* * * * * * *
わたしたち人間は、
家族や身近な人に対して、
無意識にいろいろと "求めて" います
例えば、
「このくらいのことはわかってくれるはずだ」
「言わなくてもわかってくれるはずだ」
「私の話しを聞いてくれるはずだ」
「私の意見には反対しないはずだ」
「前に頼んだことを覚えていてくれるはずだ」
などなど、
こういったいろいろなこと、無意識に求めて
いること、多くないですか?
そして、
「〜くれるはず」と、
求めている通り=自分にとって都合の良い結果になるはずだと勝手な期待
持ってしまっていること、多くないですか?
で、実際には、
相手が期待に応えてくれないことのほうが
多いと感じるくらい、期待は砕け散ること、
多々ありますよね 笑
そりゃあそうですよね、勝手な期待、妄想ですから 笑笑
で、そんなとき、あなたはどうしますか?
・不機嫌になって黙り込む
・相手が悪いと決めつける
・怒って、相手のことを責める
・相手のことを変えようとして説教をする
・即、嫌いになって関係を切る(それをわざわざ相手に言う)
あなたがこれらをするとしたら…
相手に対して強く甘えている
ということになります。
いかがでしょう
素直に受け止められますか?
なんで甘え?どういうこと?どこが甘えなの?
と思いましたか?
順を追ってお話ししますね。
この、相手に対しての "甘え" のことを
《 依存 》と言います
心理学の言葉で、【 母子一体感 】 と言います
【母子一体感】とは、
本来、幼児がお母さんに対して抱く「甘え」です
母親を「自分とは別の人間」として
認識できていない心理状態でもあります
母子一体感とは、
「お母さんは私(僕)の欲求を
満たしてくれて当たり前」
「お母さんは、私(僕)の気持ちを
わかってくれて当たり前」
「お母さんは私(僕)の期待に
応えてくれて当たり前」
という、子どもに特有の依存心(甘え)の
ことです。
そして子どもは、成長していくにつれて、
「母親が常に私(僕)の期待に応えてくれる
わけではない」
ということを受け容れるようになって、
健全な《離別感》を持つようになります
《離別感》とは、
「相手には相手の事情がある。
相手は私の思いどおりになる存在ではない」
という「大人の心理」
です。
けれども、ご相談を受けていると、大人になっても
「母子一体感」を手放すことができない人は
かなり多いと感じています
「母子一体感」を手放すことができない人は、
家族だとか身近な人が期待どおりの反応をしてくれないと、不機嫌になって黙り込んだり、
腹を立てて、相手のことを責めたり、
攻撃してしまったり、
自分が正しいと信じて疑わず、
相手のことを変えようとして説教や非難をしたりしてしまうわけです
母子一体感 = 甘え、依存心
相手の事情、欲求、価値観を無視して、
「私の事情をわかってくれ」
「私の欲求を満たしてくれ」
「私の価値観を理解してくれ」
ということを一方的に要求しているのです
相手は、自分に配慮してくれて当たり前
相手は、自分の気持ちを受け容れてくれて当たり前
といった幼児的な母子一体感を、相手に対して持っているわけです
子供が親に対して母子一体感を持つことは
自然なことです
そして、それが適度に満たされることが、
心の発育にとって大切なことです
乳幼児時代に、しっかりと母子一体感を満たすことができた子どもほど、
つまり、存分に親に甘えることができた子ども
ほど、心理的な自立がスムーズに進みます
けれども、大人になって、パートナーや家族や友人に対して強い母子一体感を持つことは、不自然ですし、不健康です
相手に対して、
「母親が幼児を受け容れるように、
無条件に私のことを受け容れ入れて」
と要求しているのと一緒です
これは大人どうしの関係としては
あまりにも不自然ですよね
大人同士でありながら、
相手に母親役をさせようとしているわけです
この場合、
「永続的」で、「お互いが幸せな」関係を築くことが難しくなります
アドラー心理学では
「課題の分離」という言葉で説明していますが、
「私の課題」「相手の課題」
という視点を持ち、相手の課題に巻き込まれない、口を出さない
これが「課題の分離」です。
日本という国は古来から、
・相手の気持ちを察する
・気が利く
・場の空気を読む
を、「良いこと」と捉える文化がありますよね
もちろん、
「察する」「気を利かせる」「空気を読む」
は、ほどほどであれば問題ありません
それらが過剰になってしまうと、
察する側(気を利かせる側、空気を読む側)は、自分らしくふるまえなくなってしまい、
疲弊してしまいます
そして、相手との関係も、
不健康なものになってしまいます
「察する文化」が浸透している日本では、
「察することができないほうが悪い」という無茶な論理が、まかり通っています
ちょっと古いですが、空気を読めない人を略して KY なんて言うことも広まったこともありますよね
そのような背景もあって、日本人はコミュニケーションが苦手な人が多いのですよね
「言葉で詳しく説明しなくても、私の態度や雰囲気で、なんとなくわかってもらえるだろう」
という妄想的、自己中心的な期待があるため、
言葉による説明が不十分になってしまい、
その結果、実際は相手に伝わっていないのに、
自分では伝えたつもりになっていることが多いのです。
母子一体感というのは、"幼児的な万能感"
でもあります。
「相手は私の気持ちを理解してくれて当然だ」
という甘えは、
「世界は私の思いどおりになるべきだ」
という万能感の表れでもあるんですね
乳児は誰もが、
この「母子一体感」の中で生きています
*お腹を空いて泣いたら、
母親がおっぱいやミルクを与えてくれる。
*おむつが濡れて、冷たくて気持ち悪くて
泣いていると、母親がおむつを替えてくれる。
*お腹が痛くて泣いていると、
母親がお腹をやさしくさすってくれる。
不快さはすべて、母親がオートマチックに
解決します。
こんなふうに、乳児にとって、
自分と母親の間を邪魔するものは何もなく、
自分が何らかの欲求を持てば、
それを母親が察してくれて、
いつのまにか欲求が満たされるのです
このような、乳児と母親の関係を、
「二者関係」と言います
自分と母親の二者だけが存在していて、
何者にも邪魔されない関係
自分と母親の二者がつながっていて、
それだけで完結できる関係
自分と母親の間に、言葉すら不要な関係。
これが「二者関係」です
けれども、子どもは成長とともに、
「二者関係」を脱して「三者関係」に移行する
必要性が出てきます
子どもの人生に、
「自分」と「母親」の他に
「第三の存在」が登場するからです
この「第三の存在」というのはいろいろあるのですが、精神分析家のジャック・ラカン氏によると、
その中でも特に重要なのが
「言葉」です
乳児時代の子どもにとって、
「言葉」は不要でした
自分が泣いているだけで、その理由を母親が察して、
自分の欲求を満たしてくれました
でも、子どもは年齢とともに多様な欲求を持つようになってきて、
「泣いて訴えるだけではその欲求を満たせない」
という事実に直面するようになります
また、自分と母親以外の存在にも気づきます
たとえば父親や兄弟姉妹を意識するようになり、自分と母親の二者だけで成り立っていた世界が幻想であったことに気づくようになります
そして、
「母親には母親の事情があり、母親は常に自分の欲求を満たしてくれるわけではない」
ということも、だんだんと理解するようになります。
自分の多様な欲求を満たすために母親の助けが必要な場合、言葉を使って母親と会話をして、母親を説得しなければならなくなります。
こうして、「自分」と「母親」の間に、
「言葉」という第三の存在をはさむことによって「三者関係」が成立します。
この「三者関係」こそ、子どもの
《心の成長》が促されるわけなのです
言葉で説明しなくても察してもらっていた
「二者関係」は、自分にとってはとても楽で、心地よい関係です
他者がオートマチックにすべて満たしてくれる…
できればずっとそこに安住したいと思ってしまうくらい、自分にとっては快適な関係です
自分の考えていることをいちいち言葉で説明して、さらに母親(相手)の気持ちを言葉で聞き出して、そのうえで会話(説得、交渉)をしていかなければならない「三者関係」は、たいへん面倒くさい関係ですね
大人の関係
です。
面倒くさい「三者関係」を通してこそ、
子どもは幼児的な万能感を手放すことができるんですね。
「思いどおりにならないことへの耐性」を高めながら、心理的に成長してゆきます
そして、この「三者関係」を通してこそ、
こどもの「言語化能力」と「コミュニケーション能力」が発達するわけなんですね
親が子どもの気持ちや欲求を察してしまうことで、子どもは「言葉」という第三の存在を必要としなくなる、つまり、二者関係に安住できる。
その結果、子どもは心理的に退行していってしまうわけです。
子どもといっても、年齢的は成人に達している場合も多いです
親子関係、夫婦関係、友人関係、上司と部下の職場関係など、
日常的・継続的な関係において、二者関係
(察する側と察してもらう側)をやっていると、察してもらう側が心理的に退行していってしまいます。
つまり、
共依存的な関係になってしまうわけです
親子関係であれ、パートナー関係であれ、
友人関係であれ、職場関係であれ、
「察し合う二者関係」ではなく、
「言葉によってコミュニケーションを取る三者関係」を築くことがとても大切、ということなのです。
自分の思いを察してくれない、自分の思い通りのことをしてくれない相手に対して
「察することができないほうが悪い」と感じてしまうとき、
日本特有の
・相手の気持ちを察する
・気が利く
・場の空気を読む
を、「良いこと」と捉える文化の影響で、
自分も、相手も、そうしなければならない、
という観念=思い込みがあるのです。
それはその人が悪いわけではなく、幼少期から親や日本の社会に刷り込まれてきたからなんですね。
相手の気持ちを察することに、必要以上に
神経を使うのは、疲れますね
また、自分の気持ちを抑えて、空気ばかり読んでいたら、やはり疲れますよね
どちらも!不自然だから、疲れてしまうんですよね
今までお話ししてきたことは、心理学の"知識"
です。
読んで頭で理解しただけでは、真の理解とはなりません。
セッションでは、
*なぜそれをしてしまうのだろうか
*なぜ相手に求めてしまうのだろうか
と、その深層の想いに出逢えるようサポートしています
相手の気持ちを察することも、空気を読むことも、
【自分を守るためにやってきたこと】
ですから、あたまの知識だけでいきなりそれを手放そうとするのは難しいです
無理があります
まずは、心の奥にどんな想いを溜めていたかを自覚する必要があります
自覚をしていくとともに、
他者との間に境界線を引く練習も重ねていって、無理なく、少しずつ手放していければいいですね
^^
それを続けていくと、
おたがいが心理的に自立したうえで、対等に、ほどよく甘え合える関係
健康的な「相互依存関係」
を、相手との間に築けるようになります
今、他者に対して、「察してくれない」と感じて相手を責めたくなっている方のお役に立てたら幸いです
最後までお読みくださり、ありがとうございます
𓋈 𓋈 𓋈 𓋈 𓋈 𓋈
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