"自分の正しさ"を手放す Vol.1








【 自分の正しさを手放す 】(2019.11.24)










5年ほど前のことですが、心のことや、事実・真相・悟り、つまり、己事究明ついて教えていただく場に在籍させていただいていたのですが、
自分だけの正しさやプライドを無自覚に握りしめていたことで、その学びの場に居られなくなるという、経験をしました







その経緯を細かくすべて書きますと、とてもとても長くなってしまいますので省略しますが、

ある出来事があり、JIONが最後の最後まで素直になれず、我を誇示し続けたからです。








大変痛い経験でしたが、自分が自分だけの正しさを握りしめているだなんてことに1ミリも気づいていなかったので、気づかせていただけて、本当に本当に貴重で、有難い経験でした。








そのときはまだそれが愛だと気づけていませんでしたので、それが起きたときの感情は、
自責の念にかられ、罪人のようにこの人格、この存在を否定しました
 
 





急に変わった先生とメンバーたちの
JIONへの言動が恐ろしかったですし、

先生がわたしを貶しはじめたら、
メンバーも一緒になって貶しはじめて、

 
 




やはり、わたしは他者と仲良くは出来ないんだ、
(という強い思い込みがありました)

やはりもう、他人と関わることは避けたい、と思いました








言葉では言い表せない怒り、憎しみ、不信、
悔しさ、屈辱、惨めさ、痛み、罪悪、後悔、
自己嫌悪…
 
 
 
 




そこまでになってしまっている自分を
救いたいと思いました

この経験から、
自分のことは自分でしか救えないということを、本当に知りました
 
 






身に覚えがある自分の間違いは深く反省し、正して、手放すことに努めようと思いました
 
 
 




けれども、寝耳に水なことだけは納得いかない

全員の前でされた、言われた屈辱…

しかし、先生から「言葉に意味はない」と言われ、「言葉に意味はない」とは一体どういうことなのか全くわからず苦悩しました

けれども、どんなに納得いかなくても
JIONが変わるしかありませんでした
 
気が狂いそうなほど、身を引き裂かれるような悔しさでした


(のちにこれが、本当はいない実体としての私と錯覚している自我的意識の抵抗だったんだと判ることになります)







学びの場で、人一倍アウトプットもしたし、大切なものを手放しながら、情けない、恥ずかしい思いもいっぱい晒しながら本気でチャレンジして頑張っていたのになぜ…
それはもう、物凄い自我・エゴの抵抗でした

 (自我・エゴというものは、本当はないです)
 






罪の意識に駆られる日々
 
 
 
何を見ても読んでも、
 
「わたしのことかもしれない…
責められている… わたしは笑われている」
 
 
そう反応してしまう自分を観て、
 
 






わたしは、残りの人生をずっとこうして
まるで犯罪者のように罪の意識を抱えて自責し続けて、

責められている、笑われていると妄想して、

開きかけていた重い鉄の扉を閉めて
また自分に閉じ籠り、笑わないで生きていくのだろうか…
 





ここまでのことになっている自分を救いたい
という想いと共に、涙が 溢れる毎日でした
 
 






絶望的な心境から這い上がるのにまず助けとなったのが、

慈悲の瞑想
自己受容
赦しと愛のアファメーション

その時に必要な癒しと出逢ってゆきました。




自己受容は心理学の手法で、
慈悲の瞑想、赦しと愛のアファメーションは、スピリチュアル的な手法です



(2024年1月現在は、事実・真相・悟りのお話しをしているので、自己受容についてはセッションで扱っていません)








そして、自己受容の次に取り組んだのが、タイトルの

「自分の正しさを手放すこと」

でした。







わたしの中に、弱さ(甘え)があること、傲慢さがあることに気づき、それを受け入れ、認めることは、とても痛い作業でした。


けれども、目を背けず、己から逃げずに向き合い、己の明らかな間違いに心底気づいたら、
『こんな思い込みはさっさと手放したい、いらない』と思えるようになり、
そうして少しづつ少しづつ楽になっていったのです。








勿論、すぐに認められたわけではありません。

「自分の正しさ」とはどういうことかを知り、

自分のどういうところが、自分の正しさを
握りしめて誇示しているのか、
まずはそれをしっかり自覚する必要がありました。






そして、私が「自分の正しさ」を持っていて、誇示していたことを認めて、受け入れて、赦して、手放すまで、約3ヶ月かけて取り組みました。








「自分の正しさ」について理解が深まると同時に、屈辱と感じた出来事は、プライドや自惚れ、見栄、思い込み、優劣や承認欲求、
そして、生きづらくしていた様々な観念を破壊させてもらえる、という、実は大変大変
有り難い出来事だったのです









Vol.2へ続きます







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