あたりまえ のあたりまえじゃなさ
2024年、最初の記事です!
本年もよろしくお願いいたします^^
今年から、JIONという芸名(笑)で
活動することにしました
じおん です
改めて、よろしくお願いします♡
名前の意味は特にありまへん
音がなんとなくいいなぁと^^
今回は、あたりまえ について
わたしたちの日常、生活の様子
あまりにもあたりまえすぎて
あたりまえがどれだけすごいお宝なのかに
大多数の人が気づいていません
人の概念、考え方を超越している
ものすごいお宝なんですよ
というおはなしです
私たちは この生の継続のために
食事を摂りますね
物心ついたときにはすでに
毎日普通に
何の疑いもなく
食べるという行為を繰り返しています
ですから、それが
あまりにも当たり前で
多くのひとが そのことについて
深く考えてみるという機会は
なかなかないと思います
眼 耳 鼻 舌 身(触覚・知覚)
五感という言葉を知っていますし
それが何かも知っているつもりですが
本当の本当の それらの作用は
あたりまえという名の
人間の概念を超越した
無我の作用・働き・活動です
例えば、先にあげた 食べる ということ
まずは、お食事が並んているところへ
行きますよね
「食卓へ向かって歩け」
なんて、わざわざ ”個の私" が命令しなくても、脚が自然と歩き出し、食卓へ赴きます
座れと命令しなくても 自然に座ります
命令なしに、手は自ずから箸に赴きます
箸を持って、それを巧みに使って、
自然に食べたいものを取ります
それをちゃんと口に運びます
目や鼻や耳に、食べ物を突っ込もうとすることは起きないですよね
外食や、家族と食事をしていて、
他者の口に持って行ったりもしないですよね
これらの動作、行為のために、”個の私"の
知的能力を働かせて、
「歩け」とか、
「座れ」とか、
「箸を持て」とか、
「あれを摘め」とか、
「口に運べ」とか、
いちいち知性を使って命令を下して手や脚を
動かすような、そんなことは、一切していないですよね?
そして、食べ物が口に入ったら
即! 時間なく
いきなり、そのものの味が現れます
卵焼きの味だ、と思ったり考える前に、
即! 味そのもの
言葉を要しない 味の実物です
(今、書いているこの言葉は説明ですので、事実そのものではありませんからね。この説明で理解したと勘違いしないように気をつけてくださいね。)
そして、
自動的に噛むことが始まり、
卵焼きの食感も自然に現れ、
飲み込むことも自然に起きます
卵焼きの味だ、と認識したときには
もうない
どこにも残ってない
だから、次のお味噌汁の味を
ちゃんと味わえます
さっきの卵焼き 美味しかったなぁ
と、思い起こすことがおきても、
あんなに確かにあった味の実物は
もうどこにもありません
美味しかったなぁと思い出し、
ありありと感じている味は、頭の中にしか
ありません
頭の中での、記憶による再現ですから、
実物ではありません
どこにも残らない
今まで食べたものの味の実物が全部残っていたら大変ですよね。
どれが今の味か 迷いますよね 笑
前の味が残らないようにしようなんてする必要なく、ちゃんと終わるようになってます
執着のしようがないようになっています
はなから、問題にならないように
なっているんです
決着してるんです
迷いようがないんです
このように、
食べることに関することぜーんぶ
"個の私" つまり
ひとは 介在していません
"個の私" がすべてコントロールしていると
思っていること、
万人共通に備わっている機能は、
ひとが介在していないんです
耳 は、好き嫌い関係なく
ただただ、現れた音の実物
ワン!
ビュービュー
コンッ
チュンチュン
聞こえているとき
耳がある と思っていません
耳を感じていません
耳 も 私 も出てくる隙がないほど
即 言葉を要しない 音の実物だけ
(ワン や コンッ は説明で、
生の事実、実物ではありません)
で、その音が終わったら、もうないんです
さっき ワンワンて聞いた と思い起こしても 耳にワンワンの実物はありませんよね
ワンワンを思い起こしてもいるときは
それは頭の中だけです
絶対に、今の音の実物で生活しています
耳も、今まで聞いた音の実物が
全部残っていたら大変ですが
残らないようになっています
眼 は、ただただ、今ある目の前の様子
が見えてるだけで終わっています
右を向いたら 即! 右の様子が見えます
右を向く前に見えていたものは 残っていません
先程の音の説明と同じです
見ているとき
眼があるなんて思っていません
見ているとき
眼はどこにも出てきません
眼 も 私 も出てくる隙がなく
即 言葉にできない 見えているまんま
今、見えている様子だけ
(テーブル や 壁 はラベル 説明です)
ありながらなくて
ないながらある
在る でもない
無い でもない
なにかに固定できない
ある とか ない とかの
人間の概念にあてはまりません
思い も 同様です
「嬉しいなぁ」 と
今、そう思えている
嬉しいなぁ の思いに気づいたときには
もう終わってるんです
確かに思えて、でも、どこにも残ってないんです
ご相談くださる皆さん、
「この思いが消えないんです」
「ずっとあって苦しいです」
と仰います。
でも、ずっとはあり続けてはいないんです。残り続けてはいないんです。
思いも 一回一回 立ち消えなんです
森羅万象
すべてが 固定的な実体がないんです
人 とよばれる私たちの生涯は
眼にものを見て
耳に聞いて
鼻は香りを
舌は味を
皮膚は暑い、寒い、熱い、冷たい、
心地いい、痛いなどを感じ、
一切残らない
一瞬たりとも 留まれない
常ならず
諸行無常という言葉がありますが
"人生の儚さを言い表している"というふうに
捉えられていることが多いですよね
ゆえに切ない、寂しい意味合いに感じます
実は違うんです
一瞬よりも短い時間を
表現する言葉
刹那
人を含む森羅万象の一才は
一刹那たりとも 留まることはない
という意味なんです
もう一度
人 とよばれる私たちの生涯は
眼にものを見て
耳に聞いて
鼻は香りを
舌は味を
皮膚は暑い、寒い、熱い、冷たい、
心地いい、痛いなどを感じ、
一切残らない
残りものなし
誰もが
従来から決着している
従来から脱落している
従来から解脱している
従来から、迷いようのない
スッキリとした生活をしています
そのように、この身はずうっと、常に、
作用しています
留まりません
シンプル ストレートな
万人共通の機能、作用
そのほか何もないんです
今の この自分 このままで
何も問題ないんですよ
と言われても、
自我的な意識には、そのことが
納得できないんですね
人は必ず
なにか今の自分とは違う
特別や立派なものを追いかけてしまいます
他者と比較して、自分はなにか欠けてる、
まだ足りない、と感じて、埋めよう、得ようと、それによって安心しようとします
今の自分とは違う
本当の自分なんてものがいると思い込み
それになろうとしたり
探し続けたり…
事実がハッキリしていないから
そうして迷うんですね
ないものをあると思い込んでいるのが
迷いです
もの、色、音、味、匂い、触れた感覚
↑
これらすべてに、名前をつけたのは
人ですね
人間が後からつけたラベル
本来 名前なんてありません
美味しい も ラベル
卵焼き も 甘い も ラベル
事実は、本物は、
言葉を要しない味の実物
味そのものです
眼耳鼻舌身意 が 色声香味触法 と
作用して終わっているだけ
そして
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
ありながらない
ないながらある
思っても 思わなくても
それが そのように そのまんま見えて
思っても 思わなくても
触れたら 即 お茶そのものの味がして
思っても 思わなくても
手は動いて
思っても 思わなくても
歩ける
何でもできる
なんの制限もない、決まりもない、
知性関係なしです
人が後から創って掴んでいる
概念、意味づけ、ラベル、観念、常識、
↑
これらの前に、人とよばれるものが
人がなんにも知らないまに すでにいたんです
世界も 知らないまに すでに先にあったんです
だから名前をつけられるんです
ないものに名前つけられないですからね
ひと にも ひと が ひと って
名付けたんですよね 笑
このものは 本当はなんだかわからない
ひと と呼ばれるこのものは
概念、意味づけ ひとの考え方の前に
思いが現れる前に
もう すでにあって(在るではないです)
生活が成り立っています
ひとの概念 二元相対の考え方の前
真の自由
自由自在の様子
個の私 なんてものなしで
縁(事実)に触れて
それに応じてコロコロと それそのもので
自由自在に心身を使い尽くしています
景色になったり
音になったり
味になったり
匂いになったり
感触になったり
コロコロ コロコロ 千変万化
だから 無常なんですね
だから 無我なんです
ひと と呼ばれるこのものを含む
森羅万象の一才が 無常 無我
一才ですから
無常も無我も 消滅します
ひとの概念なんか歯が立たない世界
ひとは特別じゃないです
ひともあらゆる生物や樹々と同じ
自然現象であるということです
このものは
こんなに素晴らしいお宝そのもの
誰もが
自分を使わずに
なんにも頑張る必要なく
これだけのことが すでに出来ています
努力なしに
はなからすでに満ち足りているんです
それを知らずに
知ろうともせずに
ひとは もっともっとと貪ります
責めたり奪ったりします
人より上だとか下だとか
それほどくだらないことはありません
自分の思い通りにならない他者を
責める 嫌う 避ける 否定する 攻撃する
無くそうとする 正そうとする
どれだけ傲慢で愚かなことかを知っていただきたいのです
本当の意味での己の間違いを知っていただきたいのです
そして、
他者に、思い通りの振る舞いを望んでいるということは、
実は、自分が
"無条件で愛されたい"
という本音を抱えているということ
自分の弱さに自分で気づいて
自分で認めて、受け入れて
自分で自分を救っていただきたいのです
ひとの介入がない 考えがついていない
シンプル、ストレート、スッキリしている
ナマの事実は、
苦しむ必要ないようになっています
ということは、
ひとの悩み 苦しみ 迷い というのは
ひとの考えがついていない
シンプル、ストレート、スッキリしている事実を、
後からひとの考え方で わざわざ捻じ曲げて
その考えに執着して、
結局はその考えに自分自身が縛られているからです
もしかして、自分の悩み苦しみは、
だれかのせいではなくて
自分の自我的な意識、
自分可愛さから、常に自分の都合、
自分中心の考えの内容を事実と思い込んでいることが原因なのでは…
その気づきが起きたら、
迷い、苦しみの雪解けは、もうすぐです
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