Beautiful Harmony
A new beginning
since 2023 October
*目次*
・はじめに
・ご注意点
・事実 真相
・迷い
・実践 決着
【はじめに】
Welcome to our site!
beautiful harmony へ ようこそ
長年 謎に生き苦しい
同じ問題を繰り返す
うつなどの心の病
不安が強い
そのような苦しさから、
苦悩からの解放を求めて
様々な道を探究されている方
自己とは何か探求されている方
悟りたい
けれど、なかなか悟れない
とお悩みの方
色々やった、一通りやってみたけれど
ラクになるのは一時的
また何か起きると苦しい
将来の不安、恐怖
不足 不満
同じ悩みを繰り返し
本当には解決せず、納得いかず、
自分自身に落ち着けず、
苦しさや探求が続いている…
スピリチュアル
非二元(ノンデュアリティ )
ヨーガ哲学(アドヴァイタ)
占い系、霊能系、超能力系、
ヒーリング、レイキ、観念浄化、
願望実現、引き寄せ、自己啓発、
禅、瞑想、宗教、経典、何かの教え、
セラピー、量子論、心理学、etc.
もしかして、これらには真の救いはないのではないか。。。
真の解決ではないかもしれない…
。。。
と、ちょっぴり気づきはじめた方々が
お読みくださっていますでしょうか。
悟り という言葉に縁してしまい、
インターネットで検索すれば、
様々な方面で 悟り について語られています
悟りとは なんでしょう?
決着とは なんでしょう?
なにを悟りたいと望んでいるのでしょうか?
悟りたいと望んでいるのは 誰でしょう?
何に決着をつけるのでしょうか?
JIONがお伝えします悟りの内容は、
"ひとの考えの範疇で語られている"スピリチュアル、非二元、一神教、何かの教え、経典、
哲学、禅(決着されていらっしゃらない方の教え)、瞑想、などの内容とは違います
様々な方面で、様々なひとが、様々に見解をつけて語っていたり、私が知ったこと・私が体験したことが語られているので、【悟り】を求めている方は、悟りという"もの"がある、悟りという境地があって、個の私がこれから修行をして悟りを得る、個の私がその境地に至る、と誤解をされていらっしゃる方が多いように思います。
なぜそのような誤解をしているかというと、正しい "ナマの事実" 、"手つかずの事実" を示されたことがなく、知らないからですね。
悟りについて様々な情報を見聞きして、神秘的な境地とか、次元上昇して(笑)至福の境地に至るんだとか、そしたらもう苦しいことは起きなくなる、何でも知ってるわかってる万能な特別な人、覚者になって人々から崇められる、聖人君子になる、神とひとつになる…など、悟りとはきっとこういうものだとイメージを描いてしまっていて、それを信じてしまっていないでしょうか。
ですが、それらは、自我的な意識が創ったファンタジーです。
なにか最終的な実存を認め(固定的な実体を認め)、まだ悟っていない普通のひとがこれから修行をして悟りを得る、解る、成る、至る、と誤解して、求めれば求めるほど、悟りから離れます。
(何かを認めているならば二元論です)
そのように誤解したまま、実践が逆の方向にならないよう、悟りという言葉は極力使わずに、
【事実】【実物】【縁】【決着】【ハッキリする】などの言葉を使って説明します
けれども、言葉はすべて方便です。
本来、言葉にできないナマの事実を指しているだけで文字、文章に答えはありません。
言葉にした途端、ナマの事実から
ズレるからです
言葉では決して断定、限定、固定できないのです
ひと と呼ばれる このもの を含む
森羅万象一切が はなから悟っています
はなから決着しています
はなから解脱しています
ひとりの例外もなくです
ですが、そう言われても、
そう聞いて(読んで)知っただけでは
そうだと心底腑に落ちない自己がいますよね
理屈でわかっても、そう信じても、
思い込んでも、心底安心できない、
読んだり聞いたりしただけでは
本当にそうだな、とは思えないですよね
「誰もがはなから悟ってるよ」、と先に答えをもらえても、頭の理解、知識として知った
だけでは、全く役に立たないのです
本当に体得、会得するには
自身で実証するしかありません
それには、どうしたらよいのか
JIONは、体験してわかったことをただ話すだけのスピーカー?メッセンジャー?ではありません。
セッションの場で、ナマで、事実を示させていただきます。そして、誰もがはなから悟っていること、あなたがはなから事実そのものであることをご自身でハッキリしていただくための、実践でない実践、方法でない方法をお伝えいたします。
”個の私” が これから何かを学んだり、
修行やメソッドのようなことをして、その結果、真実がわかる、悟りを得る、決着に至る、解脱する、ということではありません
私 は ないんです
悟る私 は いません
観念のラスボス
" 私 "
人間の苦悩の根源は ここにあります
" 個の私 " は思考の錯覚です
はなから誰もが
ひとを含む森羅万象の一才が
悟っている 決着している
自身で明らかにする
そのための
ハッキリするまでの、しばらくの間の
己事究明期間です
【ご注意点】
JIONの記事を読んだり、セッションをご希望される場合、注意点がいくつかございます
① ひとと呼ばれるわたしたちは、なにもわからず、誕生したことさえ知らずに、まっさらの裸ん坊の丸腰で誕生しました。物心ついてから今日まで身につけてこられた知識、人間の常識的な考え方、悟りについて学んだこと、人生観、死生観などは一旦横に置いて、先入観を持たずに、丸腰で、見えるまま読む、聴こえるまんま聴いていただくことが重要になります。
②コレ=ナマの事実 は、人間の思考では理解できない内容なので、理解しようとしたり、覚えようとする必要は1ミリもありません。頭を柔らかぁくして、そのままお聴き(お読み)ください^^
③事実は体得して真の理解です。文章を読んで納得できた=頭で理解できた=知識を得た=体得した♪ は、体得していません。
勘違いしないようお気をつけください。
文章、言葉の中に、ナマの事実はありません。
④スピリチュアル、占い、引き寄せ、
セラピー、霊視、ヒーリング、自己啓発、
自己実現、心理学、既存宗教、一神教、
瞑想、マインドフルネス、仏教、
禅(決着されていない方の教え)、
ヨーガ哲学(アドヴァイタ)、非二元(ノンデュアリティ)
etc.
などとは、違う内容です。
それらは"私"ありきの内容だからです。
言葉を用いて説明するにあたり、似たような
表現があるかもしれませんが、違う内容であるということを、まずは知っていてくださいませ。
(上記のものの否定ではありません。違う内容であるということを言っています。)
(むしろ上記のような教えの内容の信仰や考え方に"執着”してひとは迷い、かたよった考え方で不自由になっていますので、JIONは、その考え・思いを事実だと思い込んでいる思考の錯覚を解いていく方向をお話ししています)
神秘的な体験、一瞥体験などをしている、していない、まったく関係ありません
【事実 真相 実物自体】
事実 とは 今ある事実
今 本当に起きていること のことです
事実 とは 考え ではありません
万人共通の ナマの事実です
ひとの介在なし
ひとが手をつけられない
考えをつかわないで
もう そう成っていること です
事実・実物自体は、必ず確実に、
今の実物自体のみに成ってしまいます
事実=真相=実物自体=悟=決着の内容は、「ワン」とあると必ず、絶対に
「ワン」とあることです
頭の中で再現する「ワン」ではなく
実物自体です
ですから、あるときだけあって
ないときは どこにもありません。
「ワン」の証明は、「ワン」そのもの
現れた瞬間の一回限り
二度と同じものには会えません
瞼が閉じられると、時間をおかずに、即
「瞼を閉じた内容・様子」のみ
瞼が開けば、時間をおかずに、即
「瞼を開けた内容・様子」のみです。
右を向いたら、時間をおかずに、即
右の風景の内容・様子」のみです。
左を向いたら、時間をおかずに、即
左の風景の内容・様子」のみです。
「いいお天気だなぁ」と思ったら、
即その「いいお天気だなぁ」自体のみ
香りの実物自体が "私" の介在なしに既に現れていて、
香りの実物に触れて、
「ラベンダーだ」
「いい香りだなぁ」
と後から思いが現れる
これは、香り・匂い実物自体を対象にして、後づけの説明です
「ラベンダーだ」とか「いい香り」、をひとは事実と思っていますが、ナマの事実は、香りの実物自体です
思いは思いの実物として、
「ラベンダーだ」とあれば、即その「ラベンダーだ」のみで、「いい香りだなぁ」とあれば、即その「いい香りだなぁ」のみです
チョコレートを口に入れたら、即、感じる
甘さ自体のみ
酢の物を口に入れたら、即、感じる
すっぱさ自体のみ
水に触れた感触自体
座っているときの感触自体
即 そのままの様子 が すでに 常に
思う前に、先にあります。
あるといっても、固定的な実体はありません。
思いは立ち消えています。
実際に、何か思ってみてください。
なんでもいいですよ^^
「あの人の態度、腹立つなぁ。」
と思って、次に
「いいお天気だなぁ」
と思ったら、「あの人の態度、腹立つなぁ。」は、もうどこにもないんです。
思いが終わったら、
もうどこにも残っていませんね。
だから、次のことを感じたり、思えたりできます。
「仕事行きたくないなぁ」
「電車乗り遅れそう!」
「お昼何にしよう。」
「急がなくちゃ!」
ね。
実に、よくできています^^
なにかを、誰かを どんなに「ムカつくー」と思っても、「お腹空いたー」って現れたら「お腹空いたー」に成っちゃってて、「ムカつくー」はもうどこにも無いんです
自ずと、残らないように成ってます
だから、わざわざ浄化なんてする必要ないんです
このように、事実=実物=真相=悟りの内容は、
ひとが、信じる 信じない
まったく関係ありません
ひとに、知識が有る 無い
まったく関係ありません
ひとが、わかる わからない
まったく関係ありません
ひとの、すき きらい
まったく関係ありません
努力 も 才能 も 必要ありません
ひとがどうこうできない
ひとが手をつけられない
ひとが介在していない
絶対的で 万人に共通で、
必ずそうある内容・様子のことです
事実の説明を読んで、頭で理解するだけでは、単に知識として知っただけです。
本当にわかる=体得するには、
実際にやってみる、実践してみることが大切です。
実践すると、知識としてではなく、実物を実物として本当に知ることができます
ぜひ、実践してみてください。
↓
「こ」 と言うと、「こ」 自体です
「こ」 のみに成っています
「ん」 と言うと、「ん」 自体です 「ん」 のみに成っています
「に」 と言うと、「に」 自体
「に」 のみに成っていて
「ち」 と言うと、「ち」 自体
「ち」 のみ
「は」 と言うと、「は」 自体
「は」 のみに成っています
このように、
前後際断 、前(過去)と後(未来)は断ち切れています
つまり、「過去―現在―未来」と連続しているものではなく、
どれも 今 のこと
いちいちが
瞬間、瞬間、完結しています
一刹那、一刹那、
今、今、今、今、今、と、
それぞれがそれぞれで 決着しています
お悩みを伺っていると、
『この思いがずっとあって苦しいです』
『ずっと考えてしまいます』
と皆さんよく仰います。
ですが、ずっと はないんです。
思いが連続している、思いが繰り返されると感じるのは ”記憶" と呼ばれるものなんですね。
その "記憶" とラベルを貼られたものも、
今、思っている内容自体です。
『昨日の出来事は最悪だったなぁ』と、思い出す内容を 《今》 思っているんです。
明日があると”思って”いますから、『明日はいい日だといいなぁ』と明日のことを思うのも、 《今》 なんです。
過去 未来 なく
常に 絶対に 今 なんです
言葉で 今 と言いますが
その今すらないです
今 「い」 「ま」 の 「い」 と言ったときには、すでにもう その今はありません
留まれません
固定的な実体はないんです
この様子のことを、諸行無常という言葉で表現しているわけですね
本来、言葉ではどうにもあらわせない
あり様です
【迷い】
以上のように説明しました《ナマの事実、真実》がわからなくなっていることを
【迷い】と定義します
事実とは、今の実物自体で、
必ず確実に、今の実物自体のみに成っている
このことが、この真実がわからなくなってしまっているのは、《認識》という機能が作用しているからです。
この《認識》という機能は、ひと と呼ばれている肉体の誕生の瞬間からは無いのです。
この《認識》について説明しますね。
ひと と呼ばれるわたしたちは、
まず、お母さんの胎内で育ちます。
受精した瞬間から活動がはじまります。
(本当は受精前からの連綿とした活動ですが、そのはなしは今は一旦おいて)
受精卵は細胞分裂を繰り返して一瞬たりとも留まりません。無常です。
身体の形成と、その身の生活が成り立つための機能が次々と形成され、作用もはじまります。
ひとは、この身体が私で、私がコントロールしていると思い込んでいますが、
この身は受精卵の時から、「これが自分・私だ」なんていう意識はありません。私が意図的に身体を創ったり、活動させたりなど、なにひとつコントロールしていない、ひとが介在していないということがわかります。ぜんぶ自然です。私なしの、無我の活動です。
胎内から誕生する瞬間は、衣服を纏わず裸ん坊、モノは何も持たず、まだ認識が機能していないので、ひとの《概念》なんてものも全く知らず、生まれたことすら知らず、生きてることも知らず、これが私だ、人間だ、なんて観念がひとつもない、意味も価値もラベルもくっついていない、完全な丸腰、真っさらで誕生します。
認識、自我的な意識もない。
持ち物ゼロです。
でも、生きてます。
生活成り立ってます。
持ち物ゼロなのに、すべてあるんです。
(↑この説明の"生活が成り立っている"の意味は、身の回りのことが自分で出来たり生活費を稼いだり自立した生活という意味ではありません。)
自然に心臓が拍動し、血液が流れています。
自然に呼吸しています。
留まらず、絶えず変化し続けています。
無常です。
眼(見える)
耳(聞こえる)
鼻(匂える)
舌(味わえる)
身(感じる)
身体があると知らなくても
各器官のパーツをしらなくても
どんな機能なのかしらなくても
概念なんてものを知らなくても
言語がなくても
認識がなくても
自力なしで、なんにも知らない間にこれだけのことがはなから自然にできています
この肉体は活動体です
つまり、ひとと呼ばれるこのもの
認識の前の世界の生活者、ということです
誕生した瞬間の それ そのもの
意味も価値もない
唯一無二の 一度きりの現れ
認識が機能するまでは、ものがあるとか、自分がいるとか、お母さんお父さんがいるとか、あっち、こっちなど、まだなんにもわかりません
つまり、認識が機能する前の赤ちゃんの世界は一元なんですね
一元とは、ひとつですから、ひとつってことすらもわからない、わかれないです
わからないもわからない
言語なく、理解なく、分離なく、主体なく、事実のみ 迷いようがありません
実相は、
私も 私の◯◯も、分離も 事実も
悟りも 迷いも 生も 死も
なんにもないわけです
当然ですね、私 がないのですから
観念も一才ありません
《認識》という機能は、モノやコトを認めて、
モノが有る とか
ひとが居る とか
出来事が有る とか 起きた とか
思わせる作用です
認識が機能するようになるのは、
生後3〜6ヶ月くらいからです。
自分の手をじーっと見たり、顔の前でおもちゃを左右にゆっくり動かすと目で追ったり、
部屋の中で歩くお母さんを目で追ったりし始めるのがこの頃からです。
JIONは、産み育てる経験に縁がありましたので、確かにその頃からだなと実体験的にもそう言えます。
ということは、それまでは認識は機能しておらず、認識が機能し始めたことで "何かが有ると思い始めた"、ということです
モノを認めると、それが対象になるため、
あっち(対象)とこっち(私)と思える、二元相対世界が生まれます
対象 が 客体
思っている私 が 主体
このように、分離を感じます
では、ぜひ、認識を実践してみてください^^
例 コーヒーカップが有る
コーヒーカップが有ると思えると、コーヒーカップは対象(客体)と思えて、
コーヒーカップがあると思えている私(主体)が居るように思えますよね。
こうして、私と他がある、自他という分離感が創られるんですね。
このことを、
"私" は思考の錯覚
と表現しています。
冒頭の誕生に関する説明で、はなから私は不在ということも理屈でおわかりいただけると思います。
あっち=対象=客体がある、と思えると、
その対象に関して、色々思える、無限に考えることができてしまうため、思い、思考の内容を本当と思い込んでしまい、"ナマの事実" "真実"がどんどんわからなくなります。
ないものをあると思ってしまうから
迷うんですね。
認識が悪い、というはなしではありません。
ナマの真実がわからなくなるメカニズムをお伝えしています。
というわけで、
実際は認識の機能によって、分離していると思っているだけで、今、この瞬間も一元、事実のみです
パン👏 とあったら パン👏のみ です
認識があってもなくても、
思いがあってもなくても、
はなから私という主体はなくて、
はなから分離はなくて、
ナマの事実・実物自体が真実なのですから、
真実を探す必要はないわけです。
これから修行(難行・苦行)、何かのメソッド、瞑想、悟りの勉強などをして真実の自分に成る、なんてことは必要ないわけです。
【実践 決着 悟り】
迷いについて説明しましたとおり、
認識という機能によって、ナマの事実・実物自体はわからなくなってしまっています
①認識によって、他(客体)と私(主体)があると思えて、
②この肉体に現れる思い・思考のすべてが "私" だと思い込んでいて
そうして、ひとは苦悩しています
"私" は、思考の錯覚です。
【迷い】で説明したとおりです。
私= 観念=思考= 自我的な意識
思考は 泡沫と同じように
ポコ ポコ と 現れて消えているだけなのですが、それを皆さん知りませんので、
思考すべてが私だと思いこんでしまっていて、思考すべてと同化してしまっていて、思考の内容すべてを私が考えている+思考の内容が事実と信じてしまっているため、"私" を中心にして、"私"の思慮を加えてものを見る
そうして苦悩しています。
ですから、認識前のナマの事実、
私という実体は、はなから不在であることを、知識ではなく、自身のこととしてハッキリしないと、ひとの悩み苦しみは解決しないのです
人間の認識、私中心の世界でものを見ると、
どれが正しい、
こうが正しい、
こうあるべきだ、
こうするべきだ、
こうあらねばならない、
こういう見方をします
すべて、考え方の世界
"私" =自我的な意識 の都合にすぎません
苦悩は、《"私" の望み通りじゃない》
という苦悩なんですね
ですが、事実は、個人の思い、望み、都合、おかまいなしに、先に現れています、常に。
◆事実は、必ず、絶対に、今の実物自体に成っているということがハッキリすること
◆認識が完全に一時的に停止して、実物自体
が実物自体どおりにハッキリすること
◆私の不在がハッキリすること
が、悟り、決着です
考え ではハッキリしません
考えではなく、実物自体が、実物自体どおりにハッキリするには、認識によって、事実・実物自体がわからなくなっているので、
認識の機能が一度完全に停止する必要があります。
認識が一度完全に停止しないと、事実・実物自体はあっちにあって、こっちに"私"が居て、と思い、
◆実物自体を対象と思うこと
◆実物自体について思ったり考えたりした内容を事実と思い込んでしまうこと
◆私が実体をもって存在していると思うこと
が終わりません。
これでは一生苦悩は終わりません。
思い・感情・思考は、泡と同じです
「辛いなぁ」は、即その「辛いなぁ」実物自体のみ。
「楽しいなぁ」は、即その「楽しいなぁ」実物自体のみ。
"私"のコントロールなしに、"私"が考える隙もなくいきなりポコッと現れて、即 ない。
立ち消えです。
思いが止まること、思いが無くなることが、無我で悟りと誤解されている方が多くいらっしゃいますが、違います。
思いを止められたり、無くしたりできる私など、そもそもいないんですよ、ということです。
私の思い ではなく
私 が思いということです
思いは、私個人の所有物ではないということ
悟りは、今の実物自体が実物自体どおりに、ハッキリすることなんです。
実物自体が実物自体としてハッキリするには、認識機能の働きでわからなくなっているのですから、認識が一度、完全に停止する必要があるんです
そのためには、
《何もしない》 の 実践 です
変な日本語ですね 笑笑
(何もしないの実践の詳細は、セッションでお伝えしています。)
この、《何もしない》という実践でない実践によって、認識が完全に停止するときがきます。
最終的に決着がつくという様子は、認識が一度完全に停止する=認識が死に切る、ということ。
自分の存在も、ものの存在も一切ないところまで落ちている時に、縁(事実)に触れて、再び認識が戻ります。
その時に、私の不在、実物自体がハッキリします。
認識が完全に停止している時には、認識が停止しているのですから当然、認識が停止しているということはわかりません。
認識が停止しているので、認識が停止しているあいだの記憶も当然、ありません。思い出せません。
自己を忘ずる明確な体験ですので、
私は悟った、私は決着した、事実がわかった、というようなことにはなりません。
はなから、私は不在だったと体得する体験ですので。
JIONは、パスタの味自体が縁となり、事実ハッキリしました。
(縁はひとそれぞれです)
悟りは、知ったことに用はないんです。認識以降の知ったことを掴んでしまうと、「私は悟った」と魔境に入ってしまいます。
”事実を知った私” がまだ居るんです。
JIONもこの時、知ったほうを掴んでしまい、一年魔境で苦しみました。
その経験のおかげで、もう本当に知ったこと、わかったことじゃダメだ、考え(頭)では絶対ハッキリしないんだ、ということがわかり、《何もしない》の実践を徹底しました。
《何もしない の実践》の徹底とは、
ひとの機能自体の働きのまんまだけでいること。機能が機能のまんまで
"考えに一切手をつけない"
の徹底。それだけです。
(しかし、ひとにはこれが難しいのです)
あるときリビングのソファに座っていて、スマホのニュースの画面をなんとなく眺めていました。ソファから立ち上がったところで、なんにもなくなりました。
立ち上がったところまでは記憶があるのですが、次に我に返ったときには画面らしき事実実物が先に現れていて、ソファから3mほど離れたところに立っていて、少し遅れて「画面だ、リビングだ」と認識が戻ってきました。何歩か歩いたのでしょうが、そのあいだの記憶が一才ありません。
なんにもなくなりました
わからないんです なんにも
わからないこともわからないんです
不立文字と言われるゆえんです
言語を絶した世界
当てはまる言葉、表現がないんです
そして、縁(ナマの事実)に触れて、また認識が
戻ることで、認識が死にきっていたことが後からわかります
つまり、自分という眺める主体が死んだ証拠
このことが、悟りとか決着とか解脱とか解放など呼ばれていることです
言葉は違いますが、同じことを指しています
明確になったのは、見えてるまんまそのもの(スマホの画面のみ)で、私というのは元々いない、ということがハッキリするのです
(これは文字を使った説明です。ご自身が実践し、認識が死に切らないと本当にはわからない内容です)
(事実がハッキリするとは、"個の私が論理的にわかる"ということではありません)
肉体の中に、自我というものがある、自分という固定的な実体があると当たり前に思い込んでいたけれど、
自我的な意識が自分の本体ではなかった、
思いのすべてが自分ではなかった、
モノやコトを認識した後からのこのこ出てくる自我的な意識=思考=私には、何もわからない、知らない、知れない、ということがハッキリします
"私" の不在がハッキリします
観念のラスボス 私 の死です
観念のボスが死ぬのですから、それ以下の観念(私の◯◯)もすべて一気に即死です
そうしたら、私の問題、苦悩は雲散霧消です
これほどの救いはありません
ですから、多くの方が想像している悟り、
一瞥体験とか、何か神秘的な体験とか、
純粋意識とか、気づきの意識とか、真我とか、大いなるものとか、神とか、愛しかない世界とか、神通力のような特別な力を得るとか、そういったものではありません
事実・真相はこういうものだ、と認められる、固定できるなにかではないわけです
自我的な意識=私 は、特別や神秘が大好物ですからね。
これらはみんな、"私"がわかっていること、"私"が認めていること、観念です
事実として実在しません
なんにもないところからいきなり
現象=今ある事実があらわれている
それだけです
《認識の前、"私" の存在も、ものの存在も一切ない世界》と、《思慮が現れる》、その境がハッキリするんです。
ひとというものは、考え方ではなく、縁(事実)にふれて活動している、千変万化しているということ。
"私"なく、今の実物自体が実物自体どおり
という事が明確になったら、二度と迷えません。迷い・苦しみの根源がハッキリするからです。それを、自分で断てるんです。
思考は変わらず次々現れます。
ですが今度は邪魔にならず、言葉に惑わされません。
"自分"が死んで、思考の中味が主人公ではなくなっているんです。
認識が落ちきって、落ちきったままではなくて再起動して、軸足が思考の中味から事実そのものになります
思考以前のものの有り様のまま、
真実を探す必要がなくなります。
これを一度経験しないと、ハッキリしないのです
ひとは死ねません
生きているときにしか 死ねません
生きながら死ぬんです
(説明しているように、もちろん肉体の死ではありませんよ。)
ひとと呼ばれるこのものの機能、作用、活動、その真相がハッキリしたら、みんな同じだとわかります。
わたしたちの生き様は、考え方で生きていないということです
森羅万象の一切が、脱落している様子が分かるんです。
それが一人を救うと万人が救われる、ということなんです。
一人が救われるということは、決定的な解決・救い=そのことが、ただそうである、ということ。
ですので、己事究明、自分自身の真相を明らかにすることが何より大切なんです
探していたものは、はなからここにあった
安心もいらないほどの大安心、真の自由
もう、迷いや疑問なく、しっかりスッキリハッキリと、自分自身に、これでいいと納得がいくのです
#事実
#真相
#悟り
#決着
#解脱